石破さん、急がないでちょっと遠くを見てください

石破茂 来月3日に内閣改造が迫り、石破幹事長の人事を巡っての話題がしきりです。
 家内は、「わたし、あの人きらい」といいます。どうしてと訊くと、「あの顔、目つきが嫌い」といいます。しかし、政治家の好き嫌いを顔つきで決めてはいけない。
 とはいえ、ぼく自身、石破さんには最初から、ある胡散臭さを感じ続けていました。しかし、今の自民党では、彼は押しも押されぬナンバーツーだと思います。
 その彼に、安倍さんが安全保障法制担当相への就任を依頼したのがことの始まりだったようです。石破さんはこれを固辞し、幹事長を続投したいと表明しました。安倍さんは譲らず、断るなら「無役」という意向も報道されています。まことに困ったことです。この世界が揺れ動いてる大切な時期に党内抗争をやってる場合か、なにを考えてるのだと、思ってしまいます。
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『陸軍中野学校』を観る

 大分前に観た記憶があるのですが、今回改めて『陸軍中野学校』を観ました。チャンネルNECOで中野学校シリーズが連続で放映されたからです。
 このシリーズは、1966年〜68年のわずか3年の間に5作も作られています。主演はあの名優・市川雷蔵が一期生として、この有名なスパイ養成機関の卒業生を演じています。
 シリーズ5作は次のようになります。
 1.『陸軍中野学校』(1966)
 2.『陸軍中野学校 雲一号指令』(1966)
 3.『陸軍中野学校 竜三号指令』(1967)
 4.『陸軍中野学校 密命』(1967)
 5.『陸軍中野学校 開戦前夜』(1968)
 いづれも、大東亜戦争の勃発直前の状況を描いています。淡々と描かれるその白黒の映像は、不思議な緊迫感があって充分に引き込む魅力を持っています。
 1と3はYouTubeに予告編が上がっています。陸軍中野学校予告編(2分37秒) 陸軍中野学校・竜三号指令-予告篇(2分11秒)
 1966年といえば、敗戦から21年、サンフランシスコ講和条約から15年も経っていたとはいえ、東京裁判史観が日本を覆っていたと思える時に、どうしてこんな映画が作られたのか、興味がわきました。
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「田原総一郎を疑え!」8月15日のブログを読んで

 田原総一郎さんが、「常識を疑え!」僕の原点となった69年前の終戦のできごと、というブログを書いていらっしゃる。「田原総一朗 公式ブログ」ー>BLOGOS (「公式ブログ」がなぜかアクセス不能になったので転載サイトにリンクを切り替えました)
田原総一郎 「69年前、僕は11歳だった。」そうだが、ぼくは9歳だったから2歳年下、まあ同年といっていいくらいの差だ。その時彼はまだ小学生だったはずだ。たしかぼくは4年生だった。
 蝉時雨の中、「終戦の詔勅」を窓ベリに置かれた真空管ラジオの前に正座して聞いたのだが、その内容を詳しく理解は出来なかったが、大人たちが肩を落としている様子から日本が負けたのだということは分かった。
 田原さんは、少々大げさにこう書く。
「僕は悲しくなって、自分の部屋にこもって泣きに泣いた。海軍に入って、日本のために死ぬという、「夢」がかなえられなくなったからだ。いつの間にか、寝てしまっていたようだ。気がつくと、すっかり暗くなっていた。窓から外を見た僕は、とても驚いた。家々に灯がともっているのである。」
 なんとなく違和感を感じてしまう。ほんとに「泣きに泣いた」のか。敗戦間際まで、海軍に入って日本の為に死ぬなどと考えている少年を、ぼくは同年代として想像することは出来ないのだ。小学校で予科練に入ることが決まっている人は、ぼくの国民学校にも一人・二人はいた。でも、そんな人はとてつもなく成績優秀なばかりでなく、容姿も端麗だった。田原さんのその後の経緯から見て、それほど優秀だったとはどうにも思えない。だから本当とは思えないのだ。
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ポツダム宣言派とサンフランシスコ条約派の相剋

総図解『日本の近現代史』倉山満著 新科目の「近現代史」と読み比べが楽しみ

総図解『日本の近現代史』倉山満著 新科目の「近現代史」と読み比べが楽しみ

 日本も世界も大きな変動の時期にあるようで、我が国はどんどんまともな方向への変化が見られるようになり、日本という國は、まだ終わってはいないのだとも思えてきて、嬉しい限りです。
 朝日新聞はどうしたわけか32年の頬かぶりを続けてきた捏造報道を一部認めざるを得なくなったようですし、文科省は2016年か17年に予定されている指導要領の改訂で、高校での日本史の必修化と「近現代史」という科目の新設を決めたようです。
 現在は世界史が必修で日本史と地理が選択科目となっています。自国の歴史を選択科目にするとは、一体どんな神経なのでしょうか。今回、現在の世界史Aと日本史Aを統合して「近現代史」とするといいます。
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朝日新聞の大罪。朝日さん、訂正だけで済むんですか?

「慰安婦問題 どう報じたか 読者の疑問に答えます」

「慰安婦問題 どう報じたか 読者の疑問に答えます」

 朝日新聞がいわゆる「従軍慰安婦」の強制連行は誤報だったと32年間も言い続けた強制連行という事実はなかったと認めました。それは、8月5日の朝刊で読者の疑問に答える形を取った見開きページでした。
 このことは、大きなニュースとして取り上げられ、ネットでも記事が溢れています。
 朝日が認めたのは次の二つでした。吉田清治の証言は本当ではなかった。そして、工場などで働く女子従軍挺身隊と慰安婦を混同する誤りを犯したというものです。
 32年も経って、ようやく分かったというのはおかしい。吉田証言が嘘であるということを朝日新聞は早くから分かっていたし、そうした報道も一回はやっていました。しかし訂正しないで報道し続けました。その回数は32年間で16回に及んでいます。だからこれは明らかに捏造報道だったといえます。
 女子挺身隊と慰安婦を重ね合わせて、ありもしなかった「従軍慰安婦」なる名称を作り、その結果人数も吉田証言の最初の200人から20万人に膨らみました。そして、「研究不足のため」に混同したという白々しい言い訳をしています。
 さらには、慰安婦問題の本質は強制性があったかどうかではなく、女性の人権侵害があったかどうかであって、この問題を追及しないといけないと、驚くべきすり替えと開き直りをしています。
 このことを、産經新聞は<白旗を掲げて、進軍ラッパを吹く>と揶揄していますが、まことに言い得て妙だと思いました。
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乗馬の思い出

パキスタン・カラチの海岸で

パキスタン・カラチの海岸で。

 初めてぼくが馬に乗ったのは、たぶんパキスタン・カラチの海岸でのことで、それ以前に日本での体験はなかったと思います。それは、1965年のカラコルム・ディラン峰遠征の時のことでした。
 大使館のM氏が愛車のオペル・レコルトで連れて行ってくださった。大量の船荷のカラチ港への陸揚げ業務や現地調査の為に本隊より何ヶ月も前に入国していたぼくは、毎日のように大使館に出かけ、仕事を手伝ったり夜はパーティーに連れて行ってもらったりしていました。
 何年か前、池田首相が東南アジア4ヶ国歴訪の一環としてこの國を訪れた時、「こんな暑いところで仕事をしていらっしゃる皆さんは大変です」と、お金を下さったので、それでこれが建ったんです。M氏がそう説明したのは、カラチ市街地のそばの海岸・フォークスベイに立つシー・ハウスでした。(調べたら、池田首相の訪パは1961年のことで、彼はまるで安倍さんの地球儀俯瞰外交の先駆けをやっています。東京オリンピックを招致したのも彼だったようですが、ぼくがパキスタンに行った1965年に癌でなくなっています。65歳でした。政権は東京オリンピック閉会の翌日、佐藤栄作氏に禅譲されました。富国強兵によって日本の地位を高めたのはまさしくこの人だったと思います。)
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京都新聞から産経新聞へ

 朝日新聞を止めたのは、もうずいぶん前のことです。
 とはいえ、朝日はなんとなく高級な新聞だという気がしていたし、父親も戦前から朝日を取っていたこともあって、新聞といえば朝日だと思っていました。
 ちょっとおかしいんではないかと思い出したのは、たしかベルリンの壁崩壊とそれに続くソ連邦崩壊などの歴史的事件の後だったように思います。だから1990年代のことです。
 どうも朝日は世界の動きが分かってないんではないかと思うことが多かったのです。それでも、ほかの新聞と読み比べたりはしてませんでしたから、けしからん新聞だなどとは夢思ってはいませんでした。その頃は、英字新聞のヘラルドトリビューンを半ば恰好付けみたいな感じで取ったりしていましたが、熱心に読むのもしんどいので、見出しを見る程度でした。
 そんなわけで、相変わらず朝日を惰性で取り続けていたわけです。
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