先日、中村亘くんが「Wikipediaにラトックの英文は上がっているけど日本語はありませんね」といい、掲載を薦めてくれた。英文のWikipediaのURLがメールで送られてきたので早速翻訳してメールで送った。
ラトック山群は、カラコルムの3大氷河の一つビアフォ氷河の支流・バインター・ルクパル氷河の奥に聳える岩峰群である。Wikipediaには、「全ての峰はその極端な技術的困難さにおいて特筆すべきであり、世界中の高々度における、どこよりも厳しい登攀がなされてきた」と述べられている。
そこでは困難であるだけに多くのドラマがあったといえる。
ぼくが、この山群に注目したのは当時山登りの高級誌であった「岩と雪」25号に、そのとんでもなく華麗な岩峰と岩壁が掲載されたのを目にしたときからだった。
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「山登り」カテゴリーアーカイブ
東京裁判~欺瞞の歴史~(2)
アルジェリア人質事件は、たいそう痛ましい結末を迎えました。この事件でも、私たち日本人は、この国がほかの国とは大きく異なっており、大変特殊な国であることに、否応なく気付かされたのではないかと、ぼくには思えます。
今日の「モーニング・バード」では、ゲストの上智大学の私市正年教授が、次のようなコメントを述べていました。
「言っておかねばならないことは、日揮にかぎらず、日本のビジネスマンがアルジェリアでどれだけ貢献してきたか、70年代は4000人以上の人々が、アルジェリアに滞在して、まさにアルジェリアの国家建設は、日本人が行ったと言っても過言ではないのです。アルジェリアの人も大変感謝しているんです。」
これを聞いて、ぼくはインドネシアの独立を助けた日本の帝国陸軍のことを思い出しました。これは前項に紹介したとおり、「日本人は<アジアをアジア人のものに取り戻そう>と、すなわちアジア全体を西洋の植民地主義者から開放しようと、決意していた」という歴史学者レーリンク博士の主張の根拠の一つとなったものです。
日本軍はインドネシアからオランダを追い払い、インドネシア国旗の掲揚と国家の斉唱を解禁しました(1944年9月)。翌年には、スカルノなどが独立宣言するのを助け、これを承認しました。
あとに続いた独立戦争には、軍籍を離れた2000人の日本人(軍人と軍属)が最前列に立って戦い、半数の1000人がこの戦いで命を落としました。
独立戦争は4年間続き、80万人のインドネシア人が殺されたところで、アメリカが間に入って、オランダに植民地放棄の代償として60億ドルを支払うという条件で、独立が承認されたのです。
そして、もっとすごい条件が付いていました。それは、「アジア解放に殉じた日本」を消し去り、代わりに「残虐な侵略者日本」を残すこと。この2つの条件を、スカルノが呑んだので、独立が承認されたのです。日本を弱体化させようとしたのは、GHQではなく、それはアメリカをはじめとする連合国の国是ともいうべきものだったと言えます。
こうして、ジャカルタに建てられた独立記念塔には、オランダ人の過酷な植民地支配の記録は一切なく、代わりに、日本軍が資源や労働力を搾取したことが記されることになりました。さらに独立の戦いも対英蘭軍ではなく、対日本軍の戦いに置き換えられているのです。
かてて加えて、恩知らずにもスカルノは日本に戦時の蛮行の賠償を要求し、日本は国家予算の三分の一に当たる莫大な賠償金を支払うことになりました。
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信州から高岡への旅で考えたこと
先日、山の後輩たちが古希を迎えたとのことで、信州で古希の同期会を開くとの連絡があって、家内ともども参加することにした。
この年代が一年生のときから、ぼくは山岳部の監督を務めていた。彼らが3年生になったとき、婚約中のいまの家内を連れて夏の横尾本谷合宿に参加した。このときに起こった傑作な出来事は、『続なんで山登るねん』の<夏の横尾本谷に迷いこんだとんだオジャマ虫>に書いた。
ちょうど10年前の還暦の同期会も、おなじ信州は飯森の上手舘だった。このスキー民宿の主人の久八さんは、ぼくたちのスキーの先生だったという因縁で、大変長い付き合いなのである。
この集まりには、ぼくをはじめ同期ではない上級生も何人か参加していた。
そのうちの一人の後輩と宴会の後での歓談のうちに議論になった。彼は少し特殊な人生を歩んだともいえる男で、大学での山登りを途中でやめ、医者になって日本を変えることに奔走した。〇核というセクトに属し活躍したのだが、夢かなわず北海道に渡り市民病院の副院長を務め終えた後、関西に戻ってきている。
今では、原発廃止運動に邁進しているという。関電の守衛ともみ合うのが生きがいという感じなのである。
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尖閣の岩峰
先だっての2日、東京都が尖閣列島の魚釣島買取のための調査測量を行ったことは、新聞テレビで周知のことである。
このニュースを見ていて、そこにすばらしく美しい岩峰の映像を見て驚いた。
一瞬、攀りたいと思い次いで、もうそんな年じゃないと思った。
それにしてもいい峰ではないか。
右のスカイラインを直上するルートを取りたい。
写真を撮影したのは、東海大の山田吉彦教授だと思われる。
先ごろ華厳の滝を登ってつかまった馬鹿なクライマーがいた。
誰も登ってないところを登りたいというのがクライマーの欲求だとしても、少しこれは不純に過ぎると思った。
滝登りというのは、沢登りの過程で滝に遭遇した時に始めて必然としての動機が生まれるはずである。
むかし、まだ山登りの駆け出しのころ、岩があれば攀ぼりたくなったものだった。陸地測量部の5万分の1地図で岸壁を示す記号、それを毛虫と呼んでいたが、を探してそこへ出かけたりもした。
そうした山上の岸壁を求めて、田舎のバスに乗っていると、乗客の一人が、「学生さんどこへ行くのか」とたずねた。
あの山の上のほうに岩があるはずなんです。
そのおっちゃんは、怪訝そうな顔をして、「なんかかねめの石でもあるんですか?」といったものだった。
それにしても、この見事な岩峰はいわゆる魚釣島にはないようだ。
では南小島か北小島なのだろうか。なんと呼ばれているのだろうか。おそらく名前はついてないだろう。
ほかにも、見事な岩峰が尖閣諸島にはいっぱいある。そして、たぶんまだ取り付いたクライマーはいないと思われる。
日本のクライマーよ。この岩峰を目指せ!
ひょこひょこ行ったら捕まると思われる。十分な準備をして、見つからないようにしなければならない。
尖閣列島には、多くの岸壁がある。この岩峰だけではなく、すべの岸壁を攀ぼり尽くせ。
日暮修一氏の訃報を聞いて
小学館に勤める知り合いがFacebookで日暮修一さんの訃報を伝えてくれた。
日暮修一といえば、ビックコミックの表紙絵で有名な画家で、『なんで山登るねん』の三部作、正・続・続々の三冊の表紙の絵も彼の作である。
正編が出るとき表紙の絵を頼みに行った山渓の節田さんから、値段を聞いたらえらく高かったので「すみません。お願いします」と手を合わせたら、一気に10万安くなりました、と聞いた。この表紙絵代金は印税から差し引かれるということだった。だからその原画は後に貰ったはずで家のどこかにあるはずだ。原画と言えば京都新聞に連載した『いやいやまあまあ』の挿絵を描いた山本容子さんのエッチングの原画も一枚だけ頂いた。これも家のどこかにあるはずだ。
日暮修一さんに会ったことはない。節田さんから脚が少し不自由だとか聞いたような気もするけれど、全く別の人の話だったかもしれない。
どんな人だったのだろうと、気になってグーグってみた。「日暮修一の画像検索結果」をみると、彼の作品が多く上がっていた。
おっと驚いた。知ってる写真があった。それは『Oh!PC』1985年新年号の表紙で「ボクの夢のパソコン」という特集が組まれているものだった。ぼくも「パソコンが作家になる日」と題するエッセイをものしている。さらに驚いたのは、この写真に続いて「パソコンが作家になる日」の挿絵があったのだ。
へぇ〜、あの挿絵は日暮さんのものだったのか。描いた人の名前の記載はなかった。あれば絶対に気付いていたはずである。日暮さんはあのビックコミックの表紙みたいな絵だけではなくて普通の絵も描いていたのだ。全く知らなかった。長い間知らなくて申し訳ないような気になってきた。
そこで、このカットを含んだぼくのエッセイ「パソコンが作家になる日」を<高田直樹ウェブサイトへようこそ>から転載することにした。
憧れの小屋泊り縦走で出した、ぼくの答え(1997.2.1)
なんで山登らへんの 第22回 1997.2.1
体験的やまイズムのすすめ
縦走というのは、山頂と山頂をつなぐ山登りの方法です。
ヨーロッパの高山、ヨーロッパ・アルプスの場合、縦走はより難しく、だから初縦走が行われるのは、それぞれの頂の初登頂が行われた後のことだったようです。
日本の高山、日本アルプスでは、氷河はなく、樹林限界を抜けたばかりの山なので、初登頂などということは、日本登山界の記録以前に行われてしまっていました。
奈良時代に伝えられたという修験道の行者は、燃えるような宗教心を持って、日本アルプスの高山の頂を目指しました。さらにはもっと以前から、そこアルプスの山域は衿羊や月の輪熊あるいは野兎を狩る猟師たちの活動の場でした。
3000m近い連山の峰々を辿るというような山登りは、山頂近くまで樹木があって可能だったといえるでしょう。
もう40年ほども前、ぼくが大学の山岳部に入った時の顧問のガメさんは、今西錦司の先輩だったという名物教授でした。彼は、ぼくの北アルプス縦走計画を見て、
「縦走か。そらええわ。わしら昔はなぁ、おめぇ。あのへんは行ったり来たりで、山の上になん週間も居座っとったもんや」
「食うもんヶ、そんなもんおめぇ、人夫にゆうたら味噌やら米やらなんでも麓から担ぎ上げて来よる」
日本の山では、3000mの稜線といえども、這い松の下に潜り込み、油紙をかぶっただけで、雨露をしのげたのだそうです。
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雪の来た北山は犬一匹の寒さです(1996.12.1)
なんで山登らへんの 第20回 1996.12.1
体験的やまイズムのすすめ
いまやアウトドアブーム、中高年がRV車を駆って野山に向かう。また空前のペットブームのようで、ぼくの家の近くには、ペットの巨大なスーパーマーケットができています。
RV車には大型犬を乗せて走るのがかっこいい。
誰に聞いたかは忘れましたが、大型犬はいまやステータスシンボルなのだそうです。どうしてかというと、大きな家に住んでいないと大型犬は飼えないとみんな思っている。本当はそんなことはないのですが……。
テレビにも犬の躾をテーマとしたものがそこここで取り上げられるようになってきたようです。これは明らかに大型犬のブームと関係があると思うのです。
躾がされず訓練が入っていなくても、小型犬ならなんとかなるでしょう。でも30kgを超える大型犬はそうはいきません。勝手に走り出したら引きずり倒されてしまいます。飛びつかれたら突き倒されてしまう。
少し場所を移動させるのだって、大型犬は押したくらいではびくともしません。どうしても、口で言って自分で動いてもらうしかないわけです。
何時だったか、浜松の有名な犬の泊まれるペンションでのことです。ある若夫婦がラブラドール・レトリーバーを連れてやってきたのですが、その犬は、がんとして二階に上がることを拒否し、どうしようもなくて二人は、前と後ろを抱えて運び上げていきました。
そういうわけで、躾が必要となるのですが、ここで、極めて日本的な形で犬の学校が登場します。つまり、本来家庭でやるべき事を学校に押しつけているのが日本だからです。
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ベニスの片隅で蘇る、ずっと昔の気持ち(1996.11.1)
なんで山登らへんの 第19回 1996.11.1
体験的やまイズムのすすめ
ヨーロッパから帰ってきてすぐ、ぼくはBMWのバイクを買いました。
オランダのフリーウェイを、レンタルしたBMWのK75RTというバイクで走って、そのすばらしさに心底感動したからです。
ぼくのZZR1100というカワサキのバイクだと、180キロほどもスピードが出ると、もう大変。激しい風にヘルメットは突き動かされ、必死に首の筋肉をかためるかカウリングの内側に突っ伏さないといけません。スピードメーターを見る余裕もないくらいになります。いくらメーターが320キロまで切ってあるとはいえ、それはほとんど飾りとしか思えません。
ところが、この古い型のナナハンBMは、180キロを越えても首の周りはまるでそよ風、馬に乗った様な姿勢のまま実に悠然としたドライビングが出来るのでした。
R1100Rというネイキッド(カウリングのない)BMWに乗ったナオトが、「やっぱりBMはちゃいますなあ」と感心しています。
ずっと昔に試乗したBMWのバイクはこういう感じではありませんでした。「なんといってもやっぱりバイクは日本製」と勝手に思いこんでいた自分の不明を恥じる思いだったのです。
その夜のバーベキューの椅子で、
「日本に帰ったらBMWを買おうと思うんだ」というと、パベルは我が意を得たりという感じで、
「ぼくは、きっといつか君がBMWのバイクを買うことになると確信していたよ」といいました。
そばの奥さんが、「おとうさん、お金はどうするの」と尋ね、ぼくは思わず返答に窮したのです。
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剱岳源治郎尾根Ⅰ峰の夏、還暦ヨーロッパの夏(1996.10.1)
なんで山登らへんの 第18回 1996.10.1
体験的やまイズムのすすめ
いまから数えてもう十数年も前のことになりますか。そのころ急に右腕が上がらなくなりました。腕を上げようとすると肩に激しい痛みが走ります。
バイクで走っていて、ピースサインの対向車にVサイン、「アイター」とバイクがよろけ、こけそうになる。
「どうやら四十肩らしい」と言うと、「五十に近いのだから五十肩でしょう」といわれたものでした。
この五十肩、医者にいっても針灸に通ってもなかなか治りません。もう岩登りもできんのかな、と思い始めた頃から快方に向かい始めたようでした。
ちょうどそのころの夏の終わり、剱沢から電話が入り、「ぼく暇になりましたし……」。
教え子で京大山岳部員のタケダ君からで、
「よっしゃ分かった」とぼくは二つ返事で、
「テント張って待っててくれ」とザックに一升瓶2本とつまみを詰め込むと汽車に飛び乗ったのでした。
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『スリー・カップス・オブ・ティ』の大嘘
教え子のトオル君が「Three Cups of Tea 読みましたか。ぜひ読んで下さい」と言って来た。
早速アマゾンに注文した。英語の原文のものしかないと思っていたのだが、翻訳本の「スリー・カップス・オブ・ティー」があった。<読み始めたら止まらない。全米400万部突破!>と勇ましい文句の帯が付いている。
読み始めて直ぐに、なんとも言えぬ違和感を抱いて、読み進む気が失せてしまった。なにが「読み始めたら止まらない」じゃ。「読み始めて直ぐに放り投げる」ではないか。
ぼくの抱いた違和感はなんであったのか。この本、どうも嘘くさいのだ。
ぼくは、1975年と1979年の2回、スカルドからブラルド河を遡ってビアフォー氷河に入っている。1975年はラトックⅡを目指し、1979年はラトックⅠを目指した。いづれもブラルド河最奥の部落アスコーレをでて、左折れしてビアフォー氷河に入る。どちらも7000メートル級の未踏峰だったが、ラトックⅡは失敗、ラトックⅠは成功した。このラトックⅠ峰、この時の初登以来いまに至るまで登ったものはいない。つまり第二登はない。
これらの山は、ビアフォー氷河の途中で一泊するだけで、ラトックⅡやラトックⅠのベースキャンプに着く。ところが、K2に向かうには、左折せず真っすぐにバルトロ氷河を遡ること約8日のキャラバンが必要である。
この氷河の道は、大きく開けていて、両岸に聳える高峰を眺めながらのキャラバンでバルトロ街道とも呼ばれる。
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