アホな翻訳ソフトのことなど

きょうの6チャンネル「モーニングバード」、もちろん録画で、を見ていたら笑ってしまうニュースを報じていた。
国土交通省・観光庁が開設管理するHPの観光博外国語版に数多くの珍奇な誤訳が見つかったという。
冒頭の部分の<ブルーメッセあきた>(これは道の駅の施設名)は、なんと「ブルーメッセ飽きた」Blue Messe got tiredとなっている。
「(石川)啄木」はwoodpecker(啄木鳥)。「軽トラ」はlight tiger(軽い虎)。
凄いのは、「かまくら行事」が、Mosquito event to use as a pillow(枕に使う蚊の行事)、えぇーと驚いた。

でもこの分解力はなかなかのものである。か・まくら・行事と分解した訳である。それで、急に思い出したことがある。昔話になるのだけれど、最初にぼくが作った営業用のソフトは、東山の有名料亭の献立管理ソフトだった。このソフトでは、懐石の献立を入力する。
この作業を手伝ってくれていた傍らの女性が、とつぜんけたたましい笑い声をあげた。その適齢期を過ぎんとする女性が「松葉かに蒸し」を出すべく「まつばかにむし」と入力したら、そのフロントプロセッサーは「待つ馬鹿に無視」と変換したのだ。もしかしたら、彼女は自分のことを笑われたと思ったのかもしれなかった。
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『スリー・カップス・オブ・ティ』の大嘘

Three Cups of Tea 教え子のトオル君が「Three Cups of Tea 読みましたか。ぜひ読んで下さい」と言って来た。
 早速アマゾンに注文した。英語の原文のものしかないと思っていたのだが、翻訳本の「スリー・カップス・オブ・ティー」があった。<読み始めたら止まらない。全米400万部突破!>と勇ましい文句の帯が付いている。
 
 読み始めて直ぐに、なんとも言えぬ違和感を抱いて、読み進む気が失せてしまった。なにが「読み始めたら止まらない」じゃ。「読み始めて直ぐに放り投げる」ではないか。
 ぼくの抱いた違和感はなんであったのか。この本、どうも嘘くさいのだ。
 ぼくは、1975年と1979年の2回、スカルドからブラルド河を遡ってビアフォー氷河に入っている。1975年はラトックⅡを目指し、1979年はラトックⅠを目指した。いづれもブラルド河最奥の部落アスコーレをでて、左折れしてビアフォー氷河に入る。どちらも7000メートル級の未踏峰だったが、ラトックⅡは失敗、ラトックⅠは成功した。このラトックⅠ峰、この時の初登以来いまに至るまで登ったものはいない。つまり第二登はない。
 
 これらの山は、ビアフォー氷河の途中で一泊するだけで、ラトックⅡやラトックⅠのベースキャンプに着く。ところが、K2に向かうには、左折せず真っすぐにバルトロ氷河を遡ること約8日のキャラバンが必要である。
 この氷河の道は、大きく開けていて、両岸に聳える高峰を眺めながらのキャラバンでバルトロ街道とも呼ばれる。
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エミレイツ機内での出来事

 エミレイツ航空は、一度乗ってみたいヒコーキだった。
 今回、パキスタン行きに際してこのエミレーツを選ぶことにした。
 昔は、もっぱらPIAだったが、そのころのPIAは北京で給油の為に停まり、でも空港に入ることは出来ず、もっぱら機内で時間待ちの長い時間を過ごさねばならなかった。
 つぎには、タイ・エアーに乗ることが多くなった。お酒がふんだんに飲めるタイ・エアは、大いに気に入った。たとえばJALでは、追加のお酒のサーブする乗務員は、開栓した瓶を持って通行するが、気がついた時には通り過ぎていて、おかわりの要求は出来ないことが多い。しかしタイエアーでは、後ろ向きになってゆっくり歩く。大いに気に入り、タイエアばかりになった。
 この場合、行き帰りともバンコックで最低一泊は必要だったけれど、タイでの泊まりは、行きは心の準備帰りは休養とおおいに有効な時間を過ごすことができたのは良かった。
 エミレイツ航空は、ドバイを経由するけれど、待ち時間も適度であるし、出発が夜、到着が日中というのは都合がいい感じである。
 
 ぼくと岩橋は、MKのシャトルバスで関空に向かった。
 空港で1時間ほど待つと、チェックインが始まった。エミレーツの手荷物重量制限は30kgで、他社では20とか22kgとなっている中でこれはありがたい。
 ぼくはいつものコンプレに赤系のタイにボルサリーノの紺のソフト帽といういでたちでチェックイン。こういう格好だと、エマージェンシー・ドアサイドのいい席のリクエストがすんなりと通るようなのだ。
 エマージェンシー・ドアサイドに座る乗客は、緊急の場合脱出の補助を義務づけられるから、かつての一時期は英文を読まされる英語のテストがあったりしたが、いまはそんなものはなくなったようだ。
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北杜夫の『白きたおやかな峰』

 プログに書くことになって、本棚を探し、『白きたおやかな峰』を引っ張り出した。
 いまは長い年月の末に赤茶けているけれど、かつての純白のハードボックスは、その強固さをいまも保ち、ずっしりとした手応えのある書物である。
 ボックスの裏の右下角には、ちいさく¥490とあった。
 この本の出版は遠征の翌年1966年である。今の値段にしたらいくらになるのだろう。興味を覚えて、物価指数やら大卒の初任給の推移などから計算してみたところ3700円となった。
 箱から取り出すと、まずビニールシートに覆われてカバーがある。カバーには有名版画家畦地梅太郎の版画があった。






 カバーを外すと、ライトブルーの布の硬表紙が現れる。どちらかといえば小さめの活字で、つつましく銀色の文字で「白きたおやかな峰」が刻印されている。





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北杜夫ドクターのこと(承前)

 ドクター死去の報を知ってから数日が経った。報道でそうしたことを聞くと、いろいろなことが思い出されてきた。
 前の稿に書いたとおり、ぼくは46年前の1965年、パキスタン(当時は西パキスタンだった)のカラコルムの未踏の高峰・ディラン峰に遠征した京都府山岳連盟隊の最年少隊員だった。
 北杜夫氏は、隊付きのドクターだった。だからぼくたち隊員は、彼のことをドクターと呼び、仲間内では「キタモリさん」あるいは「きたもり」とよんでいた。
 常に接触するようになったのは、やはりベースキャンプに入ってからだった。常にとつとつと喋り、なんとも言えぬ誠実さを感じさせるような人柄に思えた。
 印象的だったのは、彼が胸ポケットに収めている手帳に常にメモを取っていたことだった。ポーターとのやりとりなどで大笑いなどしていると、すぐやってきて「なに、なにが可笑しいんですか」と聞き、胸ポケットの手帳を取り出した。こうしたメモは、けっこう膨大な量になったと思うし、それだからこそ、あの名作『白きたおやかな峰』が生まれたのだと思う。
 登山遠征隊の活動が各隊員の個性や性格を浮き彫りにしながら、ここまで活写された文学作品はおそらく他にはないと思われる。
 テープレコーダーでもあったら別であるが、あれだけの細かな描写は、メモによるものだと思う。これは、本が出た直後に思った感想である。
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北杜(北杜夫)ドクターの死

友人がSMSで報せてきて、キタモリドクター(北杜夫氏)の死を知りました。

 ぼくが、最初の海外遠征隊としてパキスタンに行った時のドクターでした。それは1965年のことで、まだ外貨もままならぬ時代でした。
27才のぼくは、京都府山岳連盟派遣のカラコルム・ディラン峰遠征登山隊の最年少隊員として選抜されました。
当時は海外登山は大変なビッグイベントだったので、隊員発表が行われるとすぐに新聞記者が自宅にやってきたほどでした。ぼくは、先遣隊として、本隊より3ヵ月前にパキスタンに向かい、カラチに滞在しました。

小谷隆一隊長は、この前年まで日本青年会議所の会頭を務めた財界人で、東大山岳部のOBでした。北杜夫ドクターとは、旧制松本高校の同窓の友人でしたから、ドクターとしての参加を頼んだのです。
北杜夫氏は、有名な歌人斎藤茂吉の子供で、ドクトルマンボーとして、軽い読み物作家として知られるようになったようです。
ちょうどその頃、斎藤茂吉家をモデルにした大作『楡家の人々』を世に問うたばかりでした。
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