池上彰「20世紀を見にゆく」欠番の理由は?

 前にも書いたように「池上彰の20世紀を見にいく」は、大変に面白い。
 どう面白いのかというと、まずその事実をすでに知っていて、一種の追体験的に見ることができるというのが一つ。知ってはいてもその真実は知らなかったということがあって、そうだったのかというような合点する面白さ。あるいは、全く知らなかったエピソードのような、トリビアのような事実があることなどがその面白さの理由ではないかと思っています。

 たとえば、アメリカが太平洋戦争に参戦し、飛行機などの兵器を大増産しないといけないので、女性の労働力を必要とする。そのためのキャンペーン映画をハリウッドに依頼します。戦闘機のペンキ塗りをしていた女性が写されます。この女性があのマリリン・モンローだった。
 この偶然で、彼女はたしか雑誌のモデルとなり、そして有名女優となります。
 と、ゆうようなことは、「ほんでなんやねん」という話ではありますが、全然知りませんでした。
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”アラビアのロレンス”たちに山男のロマンを見た

 前稿で、「暴走族に教えを乞うた白バイ隊長」の話を書きました。この話を書いたのは『山渓』のどの号かを知るために『高田直樹著作纂』を開きました。
 この『高田直樹著作纂』というのは、ぼくが還暦を迎えたときに教え子たちが作ってくれたものです。ぼくが雑誌・新聞などに載せたもので単行本になっていない著作がほぼ全てA3のコピー用紙500枚ほどに収められて製本されており、重さは7.1キロもあります。
 探してみたのですが、ここにそれらしいものは載っていませんでした。その時になってぼくは気づいたのですが、その話を書いた『続・なんで山登るねん』は雑誌連載ではなかったのです。
 それは、1975年の「ラトックⅡ」登山遠征を行うために必要なお金を得るため、京都グランドホテルにまる一ヶ月缶詰になって、一気に書き下ろしたものだったのです。

 話が、脇にそれたようですが、件の話は、『続・なんで山登るねん』の「”アラビアのロレンス”たちに山男のロマンを見た」という項に書いています。
 ここに、その話を載せることにしました。
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ハッカーを支援しそして取り込むべし

先頃より、サイバー攻撃が話題となっています。
実際には、話題になるというような悠長な話ではなく、とてつもなく大変な状況だと知るべきだと思うのです。

アメリカは的確に反応し、「サイバー攻撃は新しい戦争の形」としました。
<米国では、軍のコンピューターシステムがハッカーに侵入されたほか、送電網を管理するコンピューターシステムが繰り返し侵入を受け、米国防総省は、原発や交通機関などの混乱を狙った外国からのサイバー攻撃を「戦争行為」ととらえることが可能と結論付けることとなった。>
現在の航空システムや軍用機などは、すべてインターネットを使っており、これがサイバー攻撃を受けると、とんでもない危機にさらされることになります。

世間では、そういう悪いことをする輩をハッカーと呼んでいるようです。しかし、ハッカーとは、もともとそういう意味ではありませんでした。コンピューターにおいて、極めて高い技能を有する人への尊敬を込めた言い方だった。(<高田直樹ウェブサイトへようこそ>の『パソコンおりおり草』にまもなく載る第20話「ここはハッカーの街だよ」を読んで下さい)
高い技能を悪事に用いる奴らは、クラッカーと呼ばれていました。しかし、あまりコンピューターのことが分からないマスコミ連中の誤用が原因で、そういう一般認識を生んでしまったようです。
では、わる方のハッカーではない、ええ方のハッカーはなんというのか。それはホワイトハットと呼ばれるのだそうです。
でも、なんでホワイトハットなのか。
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三十なかば変身のきっかけはコーカサスのショック

前稿で、昔のダイエットのことを書いたので、この時の山渓連載の『なんで山登るねん』の記事を雑誌から直接取り出して載せることにしました。1977年の6月号ですから、34年も前の記事です。
また、この旧ソ連邦の招待に依る1971年のコーカサス遠征登山については、コーカサスの山と人<上><下>(山と渓谷社)に報告しています。

 学生時代に運動選手だったような人が、卒業してしばらくすると、ブクブクと肥りだすなどというととが多いようです。
 これは、運動によるエネルギー消費は急に減るのに、喰いもののエネルギー摂取は同じだという具合のアンバランスによるのでしょう。それに結婚などして、ホルモンのバランスもくずれるのかも知れない。
 ぼくだって、学生の頃は、そのスマートな容姿を自認していたのですが、たちまち肥りだし、六〇キロを越えたと思うと直ぐに七〇キロ、そして八三キロに達しました。
 まあ言ってみれば、いつも二〇キロ以上の荷物を背負っているようなもんです。当然苦しいはずなのですが、そこは日頃鍛えた足腰のこと、二〇キロ位の荷物など、ほとんど気にならなかったのです。
 洋服は全く合わなくなりました。でも、社会人になって、学生の頃の服を着ることなどありませんし、新調してゆく訳ですから、これも、あんまり気になりません。
 しかしよく考えてみると、いくつかの変化が、はっきりと認識できました。
 まず、オナラの音が変りました。がっては、トランペットの様な感じだったのが、なんだか、ひび割れしたブラスみたいになりました。
 風呂に入って背中を洗おうと思っても、手が回りません。腹の皮をつまむと、それはもう皮というようなもんではありません。京都の電話帳どころか、東京の電話帳みたいだった。
 顔はまんまるく、二重あごになり、そして人からは、「ほんとに円満具足という顔ですなぁなどと、とんでもないことを言われるしまつだったのです。
 でも、もしかしたら、いつも金欠でピーピーのくせして、顔だけは「金持けんかせず」みたいな調子でニごこして、おっとりかまえていたのかも知れません。
 だいたい肥ってくると、あんまりコセコセ動けなくなりますし、体質的に闘争本能も失せてくるような気がします。
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糖質制限の食事をつづけて

 ご飯などの炭水化物や澱粉を含む野菜を摂らない食事をつづけています。
ここでその結果データを示したいと思います。
友人の女医さんに勧められたのが、きっかけでなかば冗談半分で断食をやってみたら、不思議なことに一気に食べ物の嗜好が変わりました。
 その時に彼女が、友人のドクターが置いて行ったと言って、サイン入りの一冊の本を貸してくれたのです。それは、『我ら糖尿人、元気なのには理由がある』というタイトルの本で、そこに糖質制限のことが書いてある。またまた面白半分にやってみた訳です。すぐに効果が現れたことは、前稿の「プチ断食その後、明らかな変化が」に書いた通りです。
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TPPで日本はつぶれる

 いまごろになって、いまさらのごとく、自分の不明を恥じています。
 TPPのことです。
 田中宇から「TPPが日本の政界再再編につながる?」というタイトルのメールが届きました。彼のやっている「田中宇の国際ニュース解説」に加入しているからです。
 このサービスはもう10年以上も前から続いています。最初の頃から、大変興味深くけっこう注目して読んでいました。
 どこに注目していたかというと、視点が新聞とも他の論者とも違うということ。だいたい日本の新聞・テレビは駄目だというか、あんまり広い視野に立っていないと、そのころから思い初めていたからです。

 そう思い始めたのは、もう40年以上も前、パキスタンはカラコルムの山奥の、たとえばベースキャンプなどでラジオで短波放送をきく。BBCのニュースなどがよく入るのです。それを小耳にはさんでいて、日本に帰ってきて新聞を見るとまったく違ったことが書いてあります。日本の新聞はなんかおかしいぞ、そう思うことが何度もあったのです。 
 そういうことがあって、田中宇の記事に興味を持つことになりました。

 ちょうど8年前の2003年11月のこと、田中宇氏から講演会のお誘いのメールが来ました。丹後の加悦町で講演をするので聞きにきて下さい。
 それでぼくは、BMW1100Rのバイクに乗って加悦町に出かけることにしたのです。加悦町商工会館のホールでの夜の講演の演題は「激動の世界情勢を読み解く」というもので、話はなかなか面白かった。
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アナログ機器で地デジが見れる

アナログ対応のTVやDVDレコーダーで地デジが見れるの知ってますか?
いやぁ、ぼくも今まで知らなかった。
地デジに切り替わって、大分経ちますが、当初からもう写らないはずの機器でちゃんと写るのが不思議でした。
ぼくは、3台のレコーダーを古いソニーのハイビジョン対応のテレビに繋いで使っていました。

地デジ対応処置として、CATV(ケーブルテレビ)に加入しました。その時について来るデジタルチューナーで受信し、これをレコーダーにライン入力して録画する。このやり方を目論み、新しい機器を購入しないままでやっています。
ところで、このやり方だとそれまでの地デジチューナーの入っていないDVDレコーダーでは、受信や録画は出来ないはずだったのです。
ところが、ちゃんと受信も出来るし、録画も出来る。どうも納得できなかったのですが、出来るんだから文句ないではないかと今まで過ごしてきたのです。
それが、いま理由が分かりました。
平成22年3月 総務省情報流通行政局 地域放送推進室のサイトを見て下さい。
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北杜夫の『白きたおやかな峰』

 プログに書くことになって、本棚を探し、『白きたおやかな峰』を引っ張り出した。
 いまは長い年月の末に赤茶けているけれど、かつての純白のハードボックスは、その強固さをいまも保ち、ずっしりとした手応えのある書物である。
 ボックスの裏の右下角には、ちいさく¥490とあった。
 この本の出版は遠征の翌年1966年である。今の値段にしたらいくらになるのだろう。興味を覚えて、物価指数やら大卒の初任給の推移などから計算してみたところ3700円となった。
 箱から取り出すと、まずビニールシートに覆われてカバーがある。カバーには有名版画家畦地梅太郎の版画があった。

 カバーを外すと、ライトブルーの布の硬表紙が現れる。どちらかといえば小さめの活字で、つつましく銀色の文字で「白きたおやかな峰」が刻印されている。

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北杜夫ドクターのこと(承前)

 ドクター死去の報を知ってから数日が経った。報道でそうしたことを聞くと、いろいろなことが思い出されてきた。
 前の稿に書いたとおり、ぼくは46年前の1965年、パキスタン(当時は西パキスタンだった)のカラコルムの未踏の高峰・ディラン峰に遠征した京都府山岳連盟隊の最年少隊員だった。
 北杜夫氏は、隊付きのドクターだった。だからぼくたち隊員は、彼のことをドクターと呼び、仲間内では「キタモリさん」あるいは「きたもり」とよんでいた。
 常に接触するようになったのは、やはりベースキャンプに入ってからだった。常にとつとつと喋り、なんとも言えぬ誠実さを感じさせるような人柄に思えた。
 印象的だったのは、彼が胸ポケットに収めている手帳に常にメモを取っていたことだった。ポーターとのやりとりなどで大笑いなどしていると、すぐやってきて「なに、なにが可笑しいんですか」と聞き、胸ポケットの手帳を取り出した。こうしたメモは、けっこう膨大な量になったと思うし、それだからこそ、あの名作『白きたおやかな峰』が生まれたのだと思う。
 登山遠征隊の活動が各隊員の個性や性格を浮き彫りにしながら、ここまで活写された文学作品はおそらく他にはないと思われる。
 テープレコーダーでもあったら別であるが、あれだけの細かな描写は、メモによるものだと思う。これは、本が出た直後に思った感想である。
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北杜(北杜夫)ドクターの死

友人がSMSで報せてきて、キタモリドクター(北杜夫氏)の死を知りました。

 ぼくが、最初の海外遠征隊としてパキスタンに行った時のドクターでした。それは1965年のことで、まだ外貨もままならぬ時代でした。
27才のぼくは、京都府山岳連盟派遣のカラコルム・ディラン峰遠征登山隊の最年少隊員として選抜されました。
当時は海外登山は大変なビッグイベントだったので、隊員発表が行われるとすぐに新聞記者が自宅にやってきたほどでした。ぼくは、先遣隊として、本隊より3ヵ月前にパキスタンに向かい、カラチに滞在しました。

小谷隆一隊長は、この前年まで日本青年会議所の会頭を務めた財界人で、東大山岳部のOBでした。北杜夫ドクターとは、旧制松本高校の同窓の友人でしたから、ドクターとしての参加を頼んだのです。
北杜夫氏は、有名な歌人斎藤茂吉の子供で、ドクトルマンボーとして、軽い読み物作家として知られるようになったようです。
ちょうどその頃、斎藤茂吉家をモデルにした大作『楡家の人々』を世に問うたばかりでした。
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