「タカダさんみたいな人ですよ」重廣はそう言った。

「タカダさんみたいな人ですよ」
重廣恒夫は、吐き捨てるようにそう言った。
時は1979年夏、パキスタン・ラワルピンディー、ホテルミセス・デイビスのベランダでのことです。ぼくたち京都カラコルムクラブ隊はラトック1の初登頂を目指してスカルドゥへのフライトを待っていました。

日本から持ち来ったビックコミックの「浮浪雲はぐれぐも」を読み耽っている重廣にぼくは声をかけました。当時の日本で漫画の浮浪雲が大人気なのは知っていましたが、まんが本など手にすることもないぼくは、なんにも知らなかったのです。
「はぐれ雲ってどんな奴なんや」
そう尋ねたぼくに、重廣はしばらく考えてから、吐き捨てるように「高田さんみたいな人ですよ」そう言ったのです。
その語気のあまりの鋭さに、ぼくは言葉に詰まり、後に言葉を繋げないまま立ち去ったのでした。
その言葉にはあるいまいましさと憧れがないまぜになっているようにも感じられたのです。不思議なことにぼくはなぜかある安心感を覚えていました。そして重廣を誘い込んだのは間違ってはいなかったという確信めいたものが、ふと心をよぎったようにも思えたのでした。

大体一回りくらい年下の重廣とぼくは、少し前に文部省登山研修所が制作した『岩登り技術・応用編』という映画で共演したことがありました。二人はザイルを結んで剱岳のチンネを攀ったのです。さらにもっと前、第二次RCCがエベレストを目指した時、大阪・京都より西の隊員応募の元締めを務めたのはぼくで、ぼくはあんまりその頃の記憶がないのですが、重廣はぼくのことを知っていたはずです。
そんなこんなで顔見知りだったので、ぼくは彼を梅田の喫茶店に呼び出してかなり強引に口説いたのです。黒部の岸壁をいくつも攀っている彼の実力はよく知っていたし、1975年のラトック2の経験から、ラトック1は岩陵ではなく壁が鍵だと思っていたからです。
彼は奥淳一と渡辺優という二人の強力なクライマーを連れてきました。
ぼくはまず武藤君に声をかけました。ぼくは1971年に、日ソ選手交換協定でソ連邦に招待されたカフカズ(コーカサス)連峰遠征隊として東京山岳連盟が組織したシヘリダ峰登山隊の雇われ隊長を務めたことがありました。武藤英生はその時の最年少隊員で、実力は評価していました。松見親衛は、山渓の池田常道くんが推薦紹介してくれた優れたクライマーでした。
ぼくにはもう一人、加えたいメンバーがいました。それは遠藤甲太という男で、谷川連邦でのいくつかの記録があるものの、大酒飲みのだらしない男という評判が固まっていました。でもぼくが特に評価していたのは彼の文才でした。ラトックを攀らせたら変わるのではないか。そんなことを考えたりもしました。
この人選に強く反対したのは重廣でした。でも最終的には彼はぼくの頼みを聞いてくれたのです。隊のマネージャーとして馴染みの中村達、ほかに教え子の城崎英明を加え、
隊が出来上がりました。重廣はぼくのわがままをみんな我慢してくれたのでした。

ぼくが最初から言っていたのは、みんなに頂上に立ってもらう。だから、抜け駆けすることなど考えず、フルパワーで挑んでくれ。荷上げの計量はしない。目一杯担いでくれ。
そして、ラトック2での出来事を話しました。荷上げの計量をしなかった結果はどうなったか。なんと上部テントにはロールペーパーが山積みになったのです。
ラトック1でも、変なことが起こりました。上部テントでロールペーパーが欠乏したのです。
ぼくは、最初からこう言い続けました。あの壁の下でよく見て考えよう。ラインが引けるかどうかを。引けたら必ず登れる。引けなかったら、そこで諦めて帰ろう。
1975年のラトック2の時、同時期にラトック1を狙っていた原真隊のベースキャンプからその大岩壁を望んだことはありました。しかし、真剣にルートを引いたりはしませんでした。ただ、その岩壁を直上するルートが見つかるような気はしていたのです。

岩陵より岩壁だ。この考えはラトック2を終えた後、かなり強固なものとなったようです。岩陵ルートは、すこしの天候悪化だけで一気の困難になり、天気が回復してもその困難さはしばらく続きます。
一方岸壁の場合、一旦フィックスを張って仕舞えば、天気はあまり関係なく、荷上げができます。ルート開拓とフィックスロープの固定という極めて単純な作業となるのです。
重廣の見事な荷上げ管理によって、順調にルートは伸び、6名の登攀隊員の全員が登頂に成功しました。見事な成功だったと思います。この間重廣とぼくの間で意見の対立は皆無でした。隊員の登り下りに関して異動の要求は何度かありましたが、その全てをぼくは認めませんでした。ただ、重廣とぼくに関しては、自分の判断で自由に動いていいという申し合わせを最初にしていました。だからぼくは、頂上に向かっても誰からも文句は言われない状況でした。
でも、ぼくはこの隊は隊長はベースで指揮を取ることに徹すべきだと決めていたのです。松見君が後にあの時の隊長の指示が無かったら危なかった。それは一度では無かったと語ったと聞きました。
重廣が写真が撮れなかったからと言って2度頂上に向かったことが分かった時は、心底驚きました。ルート開拓と16mmの映画撮影を一緒にやるなんて人間技じゃない。ほんとに強い男なんだと思ったことでした。

見事な成功がもてはやされる。そうなって有名になる。そしたら自分はどこかで遭難する。それはぼくに付き纏ってきた強い思いでした。そんな例をいやほど見てきた。だから、新聞社からの質問があっても帰国の予定なども答えませんでした。みんなとは別行動で、セキタのいるクエートに飛び、数日を過ごして密かに帰国したのです。
テレビの出演も重廣に任せました。その当時は、ラトック1の第2登が40年間も成功しないなどとは考えもしませんでした。
それは、ラトック山群の岩陵は岸壁より難しいというぼくの仮説を裏付けることでもあったと思います。

ラトック1の計画が公表された時、山の世界の人たちは一様に違和感を覚えたようでした。登山隊というのは普通一般に既存の団体から出来上がるものです。でも、ぼくの作った隊は、ぼく個人が呼びかけて作ったものだったからです。
まともに行けるわけがない、向こうで空中分解や。いやいや行きの空港で分解する。そんな話が飛び交ったようです。そこでぼくは、この隊の準備の進行状況をドキュメントで雑誌の山渓に連載することにしました。大体登山隊の進行状況などというのは秘密にするもので、それをドキュメントするなどというのは、初めてのことだったようです。
ライターには、卒業生で神戸新聞に入った男に頼みました。
この男は、ちょっと癖のある男で、高校では新聞部でしたが、共産党シンパの教師の記事をぼくに取材して高校新聞の記事にしたのですが、取材源に関しての約束を破っていたので、ちょっとけしからん奴という感じはしていたのです。
時々家にやってくると、ここはまるで梁山泊ですなあと、褒めてるのか揶揄ってるのかわからない調子の言葉を吐いていました。ある時、ぼくの家内がぼくに靴下を履かせているのを見て、「奥さん、止めてください。それは奴隷のすることです」と叫び、ぼくも家内も驚いたのですが、家内は無視して続けたのでした。ぼくは、なに言うとるんじゃと思いましたが、そのまま無視したのです。

山渓の連載は、隊の出発と同時に終わりました。そして、ラトック隊の本が出版されることになり、誰にかかせるかとの相談を受けました。ぼくは迷うことなく彼を推し、彼が書くことになったのです。連載中取材で同行している彼をぼくは極めて冷たく扱っていました。
彼が、ぼくのことをよくは書かないという確信みたいなものもありました。それはぼくにとって、むしろ望ましいことでもあったのでした。そしてぼくには、一度の取材をすることなく書かれた『頂は誰がために ラトック1峰初登頂の記録』という本が出版されました。ぼくは読む気もしませんでした。ほとんど売れなかったようですし、書評も見たこともありません。
もしぼくが取材を受けたら、浮浪雲の話もしたかも知れないし、そしたら結構面白い本になった可能性もある。そんな気もしているのです。

遠征が終わって日本に帰る着くと、改めて『浮浪雲』ことが気になり、本を買い集めました。頑張って読んだのですが、どこがどう似てるのかどうにもピンときませんでした。ただ、浮浪の妻のカメは女房に似ているような気もしました。女房を北山へ連れて行って、ぼくが谷を覗き込んで「あれぇ、クジラがいる」と叫ぶと、女房は大真面目で「どこにぃ」と返したりするのです。
ぼくはいくら誘われても、日本山岳会には入らなかったし、結構自立狷介けんかい孤立しているところもある。まあちょっとくらいは似ているかも知れない。そんな気もしたのです。
ともかくこの連載、44年で全1039話。本は全112巻。なんともすごい。
『浮浪雲』について、wikipediaの記述もあるので、それを引用しておくことにします。

主人公。元々は武士であったが、現在は品川宿の問屋「夢屋」の頭(かしら・現代で言う代表取締役社長)である。仕事は二の次で、作中では仕事をしている描写はほとんどないが、番頭の欲次郎が病気で寝込んだ際、誰も仕事をする者がいないため、その際には渋々ではあるが。真面目に仕事をしている。何を言われても暖簾に腕押しであり、女を見れば老若美醜にお構いなく「おねえちゃん、あちきと遊ばない?」と決め台詞をやることで有名。また、女だけでなく陰間とも関係を持った事があり、それが原因で騒動となり、この時は雲も逃げ回っている。見かけは髷をきちんと結わず、前に結って、女物の着物を身に着けたいわゆる遊び人の風体をしている。

風習や物事に一切囚われず飄々としているが、実は柔軟かつ強靭な精神力を持つ。また、老若男女を問わず、非常に人を惹きつける魅力を持ち、有事の際には「雲が一声掛ければ、東海道中の雲助が集まる」と噂されている。また、どのような形で知り合ったのかは不明だが、徳川慶喜に対して、寝転がりながらくだけた口調で話し、慶喜もそれを許すなどの交友関係を持っている。芹沢鴨との交流もあり「一緒に日本を変えないか?」という持ちかけに「あちきは浮浪雲なんでね、日本を変えようなんて気はありませんよ」と笑顔で返し、芹沢を黙らせた。
同時に居合い斬りの達人であり、滅多にその力を見せないものの、たまに両刃の仕込み杖を使った剣術を見せることがある。その実力は底が知れず中村半次郎(のちの桐野利秋)や沖田総司等をも負かしている。ビックコミック連載。

日本の乃木さんが凱旋する・・・子供のしりとり歌

日本の

乃木さんが凱旋す

すずめ

めじろ

ロシヤ

野蛮國

クロポトキン

キン玉

負けて逃げるはちゃんちゃん坊

棒で叩くは犬殺し

シベリア鉄道なぁがいなぁ

鍋のケツ真っ黒け

けつの穴深いなぁ

鍋のケツ深いなぁ

とループになり終わります。

これも前稿と同じように突然蘇ってきた子供の頃に唱えていたしりとり歌です。似たようなものは日本中にゴマンとあったのでしょうが、そのすべては今日では問題となるような箇所を含んでいるためネットに上がることがないように思われます。
ぼくが小学校の時代とは世の中至る所であらゆる意味で差別意識が普通だったように思います。ぼくが育った園部の田舎には、夏休みなどに帰ってそこで過ごすのが常でした。そこにはぼくと同年の小学生がいて、仲良しでした。でも祖母のマサエばあさんは、ぼくが彼と遊ぶこをよしとせず、家に入れようとはしませんでした。家の格が違うから一緒してはいけないというのです。
ぼくはだから内緒でいつも一緒に遊んでいたのです。

このしりとり歌について少々考察すると、乃木将軍の凱旋ですから日露戦争のあとで、ロシアを野蛮國と貶めています。クロポトキンはよく知られた無政府主義者で共産主義者とも考えられ、日本国にとって最も望ましくない人物でした。
ちゃんちゃん坊とは当時はちゃんころとも言われた中国人のことです。こうした子供が歌って遊ぶしりとり歌にも、当時の教育思想が結構緻密に盛り込まれていたことが見て取れるようです。

「ラクダガ イッピキ タッテマス」

ラクダガ イッピキ タッテマス。

トオイ オソラヲ ミテイマス。

ウマレタ オクニガ コイシイカ。

ソレトモ オナカガ スイタノカ。

これは、子供の頃読んでいた絵本の一節です。
最近、突然、なんの脈絡もなくこんな具合にある文章が頭に浮かんでくることがよくあるようになりました。
絵本が大好きだったので、亀岡近くの女学校の先生をしていたマサコおばさんは、家に帰ってくるたびに本を買ってきてくれました。買えなかった時にそっとすでにある本を渡して誤魔化そうとしても、ぼくはすぐに気づいてしまったそうです。たくさんある本のほとんど全てを誦じられるくらいにぼく何度も読み返していたのです。孤独なぼくにとって、絵本は唯一無二の友達みたいなものでした。

小学校に入り、祖父母の元を離れてからも、夏休みで田舎に帰ると土蔵の二階に篭りきりで、父や叔父の少年雑誌、冒険小説などに熱中していました。蔵には叔母たちの雑誌『家の光』や『お産全科』などというもあり、少し早熟な少年の好奇心を満たしてくれたのでした。
そんなわけで、ぼくの女性の身体に関する知識はかなり豊富で、中学ではなにか分からないことがあったりすると、「タカダに聞こう」ということになっていたようでした。
それと、もう一つの効果は漢字にとても強くなったことです。特に漢字を読むことに関しては誰にも負けないくらいでした。当時の本には全部ルビが振ってあったから自然とそうなったようです。

高校では漢文が得意だったのは、漢字が読めたからというわけではなく、漢字というものにある親しみを覚えていたからだと思います。漢文のおじいさんの先生は、テストを点数のいいものから順に返すのが習慣でした。ぼくはいつも最初に呼ばれました。
ある時、いつものように呼ばれないので、変だなと思っていると「今日は悪い点の人から返してます」先生はそいう言いました。
漢文だけではなく古文や現代文も得意だったかというと、そうではなく、むしろ不得意で苦手だと思っていました。自由作文の課題で、田舎で過ごした幼児体験を書いたら、大きな赤字で「平凡」と書かれ、これには、ぼくのプライドは大きく傷つきました。
物を書いてお金をもらうようになっても、いつも「平凡なのではないか」と、これは一つのトラウマのようになってしまったようです。
考えてみれば、あの国語の先生はこのブログも「平凡」と評するかもしれない。でももうそれは、そんなに気になりません。きっと歳をとって少々ボケてきたからかもしれない。そんな気もします。

とんでもなく本好きだった少年は歳をとっても変わらず、常に一冊の本を携行していないと落ち着かない。ぼうはそういう状態でした。ところが近年どうも様子が変わってきたようなんです。本を読むのが少々億劫になってきたのです。これは明らかに老化現象です。
歳をとったのだから当然で、まあ致し方のないこことだと思っています。
読むのと同じように書くのも・・・。
これは困る。気張って書き続けんと。そう思っているところです。